心の窓 44.事実は小説よりも・・・(2)

事実は小説よりも・・・(2)

貴様飲め!

オレのおじいちゃんは戦争末期、南方にいた。

ジャングルのようなところで衛生状態が最悪だったらしい。

当然マラリアだのコレラだのが蔓延する。

おじいちゃんの部隊も例外でなく、バタバタと人が倒れていったそうだ。

ただ、その頃には治療薬も開発されていて、

それを飲んで命の永らえた人も多かったらしい。

しばらくしておじいちゃんも期せずして高熱にうなされるようになった。。

病気に感染したのだ。

一方でおじいちゃんの部下の一人にも同じような症状が襲った。

二人とも薬を飲めば助かる程度のものであったらしいが、

なんとその部隊には残余薬が一つしかなかった。

部下は「あなたが飲んでください、あなたがこの部隊の指揮官ですから」

と、しぼりだすような声で言ったらしい。

立派な部下をもっとおじいちゃんは幸せな人間だったとおこがましいけどオレは思う。

しかし、おじいちゃんはたった一言こういったらしい。

「貴様飲め!」

おじいちゃんはその後まもなくして死んでしまった。

この話は、つい最近死んだおばあちゃんから何度も聞いた。

薬を飲んで生き残って帰国した兵隊さんは、

その後おばあちゃんを何かにつけ助けてくれたらしい。

オレも一度だけお会いしたことがある。

まっすぐで立派な男だった。

おじいちゃんも素晴らしい命を救ったものだ。

おばあちゃんの口癖は

「貴様・・・・・って、いい言葉ね・・・・・」

だった。

おじいちゃんの死後、

もう何十年も経つのに、毎日仏壇のおじいちゃんに話しかけていた。

そして、眠ったまま死んでいった。

明治の人間はすごい。これはいつもそう思う。

私(石山)の鹿児島に住む母方の祖父は、村役場に勤めていました。

戦争には召集されませんでした。

祖父の仕事は、召集のあった若者に“赤紙”、

いわゆる召集令状を作成して発送する任務をおっていたのです。

鹿児島のいなかのことですから、赤紙に書かれた名前はみな知った人間ばかりです。

戦争が終って、続々と帰ってくる兵隊さんがいる中で

ついに村の若者一人が戦死したという情報が祖父の耳に入りました。

祖父は、自分の出した赤紙で出征し、戦死させてしまった・・・と責任を感じ

村役場を辞めてしまいました。

戦争は、あらゆる人たちの心を傷つけ、悲しみしか残しません。

二度と起こしてはならないと思います。

■最後まで息子を案じた母に勇気をもらう

小学校の頃、いじめられていた。

石を投げられる。殴られる。

転校する時、担任が一言。

「君にはお別れ会なんて必要ないよね?」

中学校の頃。回りは小学校と同じメンバー。

暴力がつづくと思いきや、とことん無視される。

休み時間は寝たふり。

給食は席をくっつけるが、誰も話に入れてくれない。入れない。

やることがないので、勉強を一生懸命やる。

人の10倍はやっただろう。そして学年で20番の成績を取れた。

あれだけ勉強して20番。

高校生の頃、普段は酒を飲まず、とても優しかった母がめずらしく酔っていた。

抱き上げた俺に向かって泣きながら言った。

「ごめんね・・・・産んでごめんね・・・・」

どんな言葉よりも、辛かった。

そんな俺にもはじめての友人ができた。

高校2年の始業式。

前の席だった奴が話しかけてくれた。うれしかった。

そいつはいつも面白くて、いつもクラスの中心にいた。

それで、俺とも話してくれた。ほんとにうれしかった。

あるとき、トイレの個室で用を足していると、外で話し声が。

男1「おまえさあ。あいつと仲良いよな。なんでよ?」

男2「お前と性格あいそうにないのにな。」

そして、友人の声

「いや、一応席近いしさ。話しかけないとまずいと思ったのよ。

ほら、俺ってクラスの人気者じゃん?

誰にでもやさしくしとかないと。ま、それでも友達にはなれないけどね」

トイレから出られなかった。

俺はなんで生きてるんだろう? 何の為に生きているんだろう?

・・・・・・もう死にたいよ。

ちいさな会社に入った。

運送会社の事務だ。

会社に入って3年。

いまだに使えない奴扱いの俺に、唯一笑顔を見せてくれる娘がいた。

その年に入ってきた新人の女の子だ。

「おはようございます」の一言、その笑顔が俺を癒してくれた。

「変われるかもしれない」

すでに人を好きになることを諦めていた俺がそう思った。

告白した。

いろいろ考えて・・・・・何度も練習して・・・・。

それなのに言えたのはたった一言。

「す・・・・好きなんです。付き合って・・・・・・・下さい・・・・」

自分でも情けなくなるくらいしどろもどろだった。

「ごめんなさい。今は付き合うとか考えられないんです。

いろいろとやりたいことがあるんです。」

彼女はそういった。

数ヵ月後、彼女は寿退社した。

「お前、この仕事向いてないよな? 自分でも分かるだろ?

辛いだけだぞ? こんな仕事続けても。

まだ若いんだから転職でもしてみたらどうだ?」

あるとき、上司から告げられた。

俺は馬鹿だけど、上司が何を言いたいのかは分かった。

次の日、辞表を出した俺に上司はうれしそうに「お疲れさん!」

その日、夜遅くまで講演で時間を潰した。

家に帰った俺に、母親がいつもの笑顔で「お疲れ様」。

数ヵ月後、母親が癌だと告げられた。

末期の胃癌だったそうだ。

もう、助からないらしい。

いつもの優しい母親。

目を見ることができなかった。

1ヶ月ほどたった日、母親がかすれた、それでも優しい声で言った。

「もう助からないんでしょ? 分かっているのよ」

俺は黙ってしまった。

母親はいつものように優しい声で

「どう? 仕事は見つかりそう?」話題を変えた。

俺は我慢しきれずに泣いてしまった。

母親はずっと俺の手をさすっていた。

数少ない親戚が久しぶりに集まった。

「あの人は本当に良い人で・・・・」

「惜しい人を・・・・」

どこかで聞いた台詞であふれていた。

俺は淡々と喪主をつとめた。

骨壷は思っていたよりも軽かった。

家に帰った俺は机の上においてあったノートを手にとった。

母親の病室の、机の下から出てきたノートだ。

日記だった。

入院してから1ヶ月くらいから、死ぬ2、3週間前までの。

その日記は父親との会話でつづられていた。

2、3日分の日記を読んで、泣いてしまった。

書かれているのは全部俺のことだった。

最後のページから数日前の日記。

その日記だけ、俺宛だった。

○○、あなたにはずっと謝りたいことがあったの。

○○がいじめられていたこと、ずっと知ってたの。

でも、私は弱い人間だから、ただ優しくすることしかできなかった。

学校に行こうかとも思ったけど、行けなかった。

いつも○○が優しい顔で「今日も楽しかった」っていって誰にも言わずに

頑張ってる○○を裏切れなかったの。

覚えてる? 高校2年の頃。私は酔ってあなたにいってしまったね。

「産んでごめん」って。

本当にごめんなさい。あのときは本当にそう思ったの。

あなたがこんなに辛い思いをしているのは私が産んだせいだって。

でも、あなたを産んで良かった。幸せだった。

だから、あなたにも幸せになってほしい。

あなたなら幸せになれる。お願いだからなって。

俺は驚いた。

あそこまでつぶれていた母親が、そんなこと覚えてるとは思っていなかったから。

ずっとそのことで悔やんでいたんだと思った。

優しくともすこし影のある笑顔はたぶん、その後悔からきてたんだろう。

号泣した。どこからこんなに涙があふれてくるんだろう?

死ぬことを考えていた俺は思った。幸せになろうと。

母の愛は、まるで太陽のように見返りを求めない無償の愛なんですね。

人生でつまづいたときには、子どもの頃に

「母親からしてもらったこと」

「母親にしてあげたこと」

「母親に迷惑をかけたこと」

この三つをしっかり思い出して反省すると大きな気付きと進歩があるようです。

それができれば、次は父親との関係の反省、

そして、兄弟や知人、など自分にかかわる全てのことに対する反省を

やることで、今の自分を作っている全てが、

「原因」と「結果」としてつながっていることが分かります。

でもすべては「母親」との関係がまず一番なんですね。

■流産した妻に勇気を与えた少年

「もう死にたい・・・・。もうやだよ・・・・・。つらいよ・・・・・」

妻は産婦人科の待合室で人目もはばからずはいていた。

前回の流産の時、私の妹が妻に言った言葉・・・・。

「中絶経験があったりすると、流産しやすい体質になっちゃうんだって」

あまりにも人を思いやらない言葉に私は激怒し、それ以来妹夫婦とは疎遠になっている。

妻は口には出していないが、もうすごく辛い思いをしていたと思う。

だから、今日までなんとか二人で頑張ってきたが、3度目の流産。

前回も前々回の時も、「また、頑張ろう」と励ましてきたが、

励ます言葉が妻にプレッシャーをかけるような気がして、何も言えなかった。

いや、そうではない。今考えるとおそらく、3度目の流産を告げられて

子供がいない人生を私は模索し始めていたんだと思う。

私は冷酷な動物だ。情けない。

「ごめんね・・・・。でももう私頑張れないかも。もう駄目だと思う」

待合室に妻の嗚咽だけが響く。

その時、妻の隣に4~5才くらいの男の子が座った。

「あのね、これあげるから、もう泣かないで」

その子が差し出した手に上には二つの指輪。

おそらくお菓子のおまけだと思う。

男の子「水色のは泣かないお守り。こっちの赤いのはお願いできるお守り」

私「いいの? だってこれ、ボクのお守りなんでしょ?」

男の子「いいよ、あげるよ。ボクね、これ使ったら泣かなくなったよ。

     もう強い子だからいらないの」

私「赤い指輪は? お願いが叶うお守りなんでしょ? これはいいよ」

男の子「これね。二つないとパワーが出ないんだって。お父さんが言ってた」

そういうと男の子は「だから泣かないで」といいながら妻の頭を撫でた。

すこし離れたところから「ゆうき~、帰るよ~」という彼のお父さんらしき人が

彼を呼ぶと男の子は妻のひざに2つの指輪を置いて

「じゃあね、バイバ~イ」と言って、去っていった。

いまどき珍しい、五分刈頭で、目がくりっとしたかわいい男の子だった。

私はその子の後姿をずっと目で追っていたが、

ふと隣を見ると妻は二つの指輪をしっかりと握り締めていた。

迷信とか宗教とかおまじないとか、そういったものは全く信じない二人だけど

この指輪だけは、私たちの夢を叶えてくれる宝物に見えた。

その日から妻は、さすがに子供用の指輪なのでサイズが合わないため

紐をつけてキーホルダーにしていた。

それから2年半後、我が家に待望の赤ちゃんが誕生した。

名前はあの子にあやかって「有紀(ゆうき)」にした。

生まれる前から、男の子でも女の子でも「ゆうき」にしようと決めていた。

ゆうきくん、あの時は本当にありがとう。

あの時、君に会えていなかったら、君に慰めてもらえなかったら、

今、この幸せを感じることはできなかったと思う。

私たち家族は、君に助けてもらいました。

君からもらった二つの指輪は、娘のへその緒と一緒に、

大事に保管してあります。

我が家の宝物です。

うちの娘も、君のように人に幸せを分けてあげられるような子に育って欲しい。

本当に、本当にありがとう。

子供は天使の心をそのまま持っていると私は信じています・・・。

■一緒に泣いてくれた人

私が京都で一人旅をしていたときでした。

離婚という大仕事を終え、自分自身の気持ちもやっと落ち着いた頃でした。

バイトでためたお金を握り締めて、大原へ行ったんです。

最初はバスに乗っていたんだけど、バスの中でどうしても涙を我慢できなくなりそうになって、

途中でバスを降りました。

大原は別れた主人と一緒に行きたいね、っていってた所だったんです。

主人とは、一度も大原を訪れることはありませんでしたが、

一緒に行きたかった、一緒にこの景色を見たかった、未練ばかりで恥ずかしいくらいですが、

そんなことを思って、観光客が降りるはずもないようなバス停で降りてしまったんです。

しばらく泣きながら歩いていました。

その時、横を通り過ぎたバイクのお兄さん3人が、一度通り過ぎたんですが、

また戻ってきました。

泣いている私を見たんでしょう。

一瞬、女一人でこんなところに降りてしまったことを後悔しました。

絡まれたらいやだなって。もし何かあっても助けなんか呼べないかなって。

でも、そのお兄さんたちは、「どうしたの? 道に迷ったの?」と

心配してくれました。

私が、大丈夫です、といって先に行こうとしましたが、泣きながら歩くのは危ないよ、と。

泣いているのが恥ずかしかったのと、知らない人だということで、

私も先を急ごうとしました。

その時、一人のお兄さんがいいました。

「君がどんなことがあって泣いているのか分からないけど、

泣くのが悪いことや恥ずかしいことだと思うなら、オレもここで泣くよ」と。

お兄さんは、とても真剣な目で言っていました。

たとえば、冗談やうそだったりしたら、どこかしらそんな雰囲気がするものではないでしょうか。

でも、その人は真剣に、私が唖然としていたら、泣き始めてしまったのです。

見ず知らずの女一人の観光者に対して、この人はなにを熱くなっているのだろう?

って、冷静なときなら思ったかもしれません。でも、そのときは感動すら覚えました。

ボロボロと泣き始める私を、彼らはずっとだまって見ていてくれました。

そして、何で泣いているのかも聞かず、どこから来ただとか、そんなことも聞かず、

一緒についてきてくれました。

ひとしきり泣いて、スッキリした私が顔をあげると、

お兄さんたちは、「もう大丈夫だね?」 といってバイクにのってまた山道を登っていきました。

降りた次のバス停まで、私を見送ってくれました。

紳士だなぁと思いました。

一緒に泣いてくれたお兄さんは、何があったのでしょう。

今は、いい思い出の中で、それが気がかりなことです。

あの時のお兄さんたち、私は元気になりました。

泣いてもいいって言ってくれてありがとう。

私はあの時泣けたから、今元気で笑うことができるような気がします。

今度は私の番です。

旅に出たら、きっといろんな思い出を捨てにきている人もいるでしょう。

そして、泣きたい気持ちを抱えている人も。

そんなとき、私はバイクを降りて、一緒に泣いてあげられるような人間になりたいと思います。

ありがとうございました。いつまでも忘れません。

■高校の制服を着られなかった妹へ

妹が死んだ。15歳だった。

昔から病弱な子で、季節の変わり目にはすぐ風邪を引くような子だった。

いつも私の後ろをついてきて、私の真似ばっかりするような子だった。

そんな妹が選んだ高校は、私の通っている高校だった。

これで、お姉ちゃんと一緒に学校に行けるね、ずっとお姉ちゃんと一緒にいられるね、

と言った妹の顔が忘れられない。

だけど、妹はその制服を着ることはなかった。

お姉ちゃんと一緒の制服を着られるといて喜んでいたのに。

入学する前に、妹は倒れた。

医者に、年は越せないでしょうと言われた時には何にも考えられなくなった。

病室に行くたびに妹はすごく喜んでくれた。

夜も遅いから、もう帰るね、というとすぐ泣きそうになる。

そんな妹がたまらなくいとおしかった。

でもある日、そんな妹に耐えられなくなった。

病室に行くたびに、痩せていくのがたまらなく辛くて、見ていられなかった。

すぐ良くなって一緒にこの制服を着て学校に行くんだ、と話しかけてくる妹。

もう2度と着ることができないのに。

そのことがわかったとたん、妹に顔を合わせられなくなった。

その日から病院にいくのをやめた。

妹のことを考えるのがたまらなく辛かったから。

親から、容態が悪くなったときいても見舞いにも行かなかった。

医者のいうとおり、妹は年を越せなかった。

細くなった体で無理に笑う妹をもう見なくてすむ、と思う自分がたまらなく嫌で、

どうしようもなく情けなくなった。

葬式にて、棺に入る妹の死に装束は高校の制服だった。

なんでも遺言らしい。

一度でいいからみんなに制服姿を見てもらいたい、お姉ちゃんにも見てもらいたい、

と言っていたらしい。

これを聞いて、初めて泣いた。

葬式の時も泣けなかったのに。

馬鹿な姉だった。

結局、自分が辛くなるのか嫌で妹から逃げていただけだった。

最後に妹に謝りたかった。

でも、もう妹はいない・・・・・。

「お姉ちゃんは私の誇りだよ」

私が聞いた、妹の最後の言葉だった。

妹のことを思い出すと、この言葉と笑い顔、

そして、ヒグラシの鳴き声を思い出す。

あの日まで会っていたはずなのに、思い出すのは決まってこの情景だ。

そしてふと思う。妹は最後まで私のことを誇りにおもっていたのだろうかと。

葬式が終わり、遺品整理をしていたとき、妹の日記を見つけた。

入院してから、妹が毎日書いていたものだ。

妹がどんな事を思っていたのか気になり、読んでみることにした。

日記にかかれていた事は、すべて私の事だった。

持って言った本について、交わした感想について。

私が話した学校の話。友達の話。ドラマの話。

日が過ぎるごとに、見ているほうが苦しくなるほど体調が悪くなっていたのに、

恨み言、愚痴がいっさい書かれていなかった。

私が見舞いに行かなくなってから、日記の内容は私への手紙になっていた。

いずれ私が読むとわかっているような書き方だった。

今までの思い出。どんなに私に感謝しているのかなど。

見舞いに行かなくなった事を非難するような文章は一行すらもなかった。

妹は自分がいずれ死ぬということをわかっていたのだろうか?

知った上で、恨み言も言わずに私に接していたのだろうか?

今まで姉ぶっていた私が受け入れられなかった死を、

泣き虫だった妹は受け入れていたのだろうか?

日記の最後のページにはこう書かれていた。

「今までありがとう。お姉ちゃんの妹で本当によかった」と。

■おにいちゃんありがとう

妹が亡くなって2年の歳月が流れました。

妹からの最後のメールを見て、命の尊さ、

いなくなって残された者の悲しみがどれほど苦痛か・・・・。

白血病に侵され、親、兄弟でも骨髄移植は不適合でドナーも見つからず、

12年苦しむだけで短い生涯を終えた・・・・・14歳でした。

妹が2歳半の時、微熱が続き、病院にいったときには白血病と診断・・・。

その日から母は毎日病院と家を往復する日々が続き、

大型連休で家族そろってレジャーに行く日なんてありません。

妹の面会が我が家の大型連休の消化日課でした・・・・。

「妹がいなければ遊びにいけたのに・・・・」

当時は妹に憎しみさえ抱いたほどです。

でも、両親が妹ばかり世話し、愛情いっぱい上げてる姿に嫉妬したんでしょうね・・・・。。

その妹が亡くなって2年。両親は抜け殻がとれたような静けさです・・・・私もですが・・・。

99年12月中旬、突然妹が「携帯電話がほしい」と、言い出しました。

私がメールばかりしていたので欲しくなったんでしょうね・・・。

もちろん大急ぎで買いに行きました。

そしてイブの夜に携帯電話を渡し、一緒にメールの送信方法も教えてやりました。

そして、私が家に帰る頃には12時を過ぎてクリスマスを迎えた寒い夜になっていました。

寝ようと思ったら妹からのメールです。

「さっきはイブだったけど、今日はクリスマスだよ。迷惑ばかりかけてごめんね。

お兄ちゃん。ありがとう」・・・・・

これを見たとたん、母が息を切らして階段を上がり「病院に行くから支度をしなさい」・・・。

さっき別れたばかりなのに、また行くの? なんで? と思いました。

病院にいくと、さっきまで元気だった妹に白いクロスがかけられて亡くなっていました。

あとで看護婦さんに聞いて分かったことなんですが、

携帯電話を強く握り締めて離すのに大変だったと・・・・。

それを聞いて、涙がいっぱいあふれました・・・。

妹の携帯電話は解約しましたが、2年経った今でも遺影の横にそっと置いてあります。

妹は、私にだけはきちんとお別れして逝きました。

■働く母の思い

むすめ1さいはん、ほいくえんにまいにちかよう

ははしごと、きょうもおむかえおそくなった

いそいでかえろう さあいえについた

ごはんはやくたべなきゃ むすめせかす

むすめひとりでいすにすわり

すぷーんでもくもくとしょくじをくちにはこぶ

おわったおさらをさげて ふきんでつくえをふくむすめ

よごれたへやいそいでそうじきかける

つぎはおふろ はやくはやく はいってあらってさあでるわよ

むすめはもっとあそびたそうなかお でももう21じ

はやくはやくねなさい ねるのよ

ごういんにへやをくらくする

むすめねる ははさらあらい せんたく

あわただしくあしたのほいくえんのじゅんび

ふう きがつけばきょうもあまり、むすめとかいわしなかった

むすめのかばんをあける

かみでできたちいさなひなにんぎょうがはいってた

くちのまがったおだいりさまと めのはなれたおひなさま

すぐにわかった これ むすめのてづくりだ

ごめんねきょうひなまつりだったね

なんでもっとはやくきがつかなかったんだろう

じょうずにつくれたね

かわいいおひなさまだねっていってあげればよかった

あたまをなでてだきしめてあげればよかった

まだ1さいなのに まだあかちゃんなのに

ごめんねごめんね

むすめのねがおになみだがこぼれてとまらない

しごとにふっきしてはんとしのはは

なんでもひとりでできるむすめにあまえてきた

そっとむすめのほおをなでる おかあさんわるかった

ごめんね

あした ふたりでひなまつりしよう

いっぱいだっこしていっぱいいっぱい

おうたうたおう はんせいしてきょういちにちがおわる

■ありがとう

2年前旅行先での駐屯地祭で例によって変な団体が来て私はやーな気分。

その集団に向かって一人の女子高生とおぼしき少女が向かっていく。

少女「あんたら地元の人間か?」

団体「私達は全国から集まった市民団体で・・・云々」

少女「で、何しにきたんや?」

団体「憲法違反である自衛隊賛美につながる・・・云々」

少女「私は神戸の人間や。はるばる電車のって何しにここまで来たかわかるか?」

団体「・・・・?」

少女

「地震で埋もれた家族を助けてくれたのはここの部隊の人や。

寒い中ご飯作ってくれて、風呂も沸かしてくれて

夜は夜で槍持ってパトロールしてくれたのもここの部隊の人や。

私は、その人たちにお礼を言いに来たんや。

あんたらにわかるか?

消防車が来ても通り過ぎるだけの絶望感が。

でもここの人らは歩いて来てくれはったんや・・・・」

最初、怒鳴り散らすように話し始めた少女は次第に涙声に変わっていった。

あまりにも印象的だったのではっきり覚えている。

団体は撤退。

彼女は門をくぐった時に守衛さんが彼女に社交辞令の軽い敬礼ではなく直立不動のまま敬礼していた。

                           (出典:なける二チャンネル こあマガジン)

2005.5


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マーちゃん

マーちゃん の紹介

ぴあの屋ドットコム代表 ピアノを弾く時にはリチャード石山と言われています。
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