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心の窓 50.ホルチン砂漠ツアー

ホルチン砂漠緑化ツアー

2006年6月に私は、中国 内モンゴル自治区のホルチン砂漠に行きました。

ここは日本に一番近い砂漠です。

なんのために行ったかといいますと、木を植えに行ったのです。

今、日本に「黄砂」がたくさん飛んできて、空が黄色くかすみがかかったようになってしまうことがありますね。

そして降ってきた砂で、自動車が真っ白になってしまいます。

これらの「黄砂」は、じつはここから偏西風に乗って、はるか日本まで飛んできているのです。

そして、どんどんと大陸が砂漠化していっている、ということも行ってみて分かりました。

それじゃぁ、なぜ砂漠が広がっているのでしょう?

その答えはこの訪問記をじっくりとお読みくださいね。

■緑化ツアー1日目

中国に瀋陽(しんよう)という都市があります。

北朝鮮の左上あたり、昔は旧満州の中心都市で「奉天」(ほうてん)を言っていました。

そこからガタガタの道4時間を車で走ったところに、この私たちが宿泊したホテルがあります。

5階の部屋でしたが、エレベーターがありませんからとても健康的な生活ができました。(私)

今回私は、日本のある企業がNPO法人「緑化ネットワーク」という団体へ援助をしている関係で

第3次緑化隊ツアーとして参加させていただきました。

これは、その日本企業が緑化ネットワークのジープがあまりにもボロボロで活動が困難を極めている現状を知って

寄付された四輪駆動車です。私も乗りましたが、荒れた大地には最高の乗り物でしたよ。

日本で昔、よく走っていた3輪のトラクターですね。単気筒のバタバタというエンジンの音が

ゴーカートみたいでなかなかいいですよ。この荷台に乗って、砂漠の作業現場に向かいます。
まるで映画のワンシーンみたいです。

中国は広い!

海でもないのに、地平線まで大地が広がっています。

山はどこにも見えません。この畑の先に広大な砂漠が広がっているのです。

ここが砂漠の入り口です。ここまでは木が生えています。

この奥に奥行き20Km、幅80Kmとも言われている砂漠が広がっています。

家畜が入らないように奥に柵がありますが、破られています。

それがこの地が砂漠化している最大の原因なのです。

砂漠の奥へと進みます。

見渡す限りの砂漠です。自然にできた砂漠ならいいんですが・・・。
砂漠4昔はあんな森があったのです。

どんどん木を切って売ってしまい、家畜に草を根こそぎ食べさせ、気がついたら砂漠がどんどん広がっていたのです。

ゴヒ砂漠のように、自然にできた砂漠ならほっておけばいいのですが、

人間の手でこうしてしまった砂漠は、元に戻さないと大変なことになってしまいます。

砂嵐で一瞬のうちに舞い上がった砂で畑が砂漠になってしまい、

作物が取れなくなった農民は生きていけなくなるのです。

でも、それが現地の人にはわからない。今日生きることが精一杯だからです。

砂漠を奥に進むと、遠くに緑が見えました。ああ、自然の力が森に再生しようとしてるんだ、と嬉しくなりました。

が、緑化ネットワークの人がいわれるには、あの緑もそのうちなくなる、とのこと。

それは、さきほど柵が破られていましたよね。

そうです。家畜に食べさせる草がなくなると砂漠にはいって “密放牧” をする人がいるのです。

この地は中国ですが、内モンゴル自治区といってたくさんのモンゴル族の人が生活しています。

ご存知のように、モンゴルは昔から草のあるところを転々と渡り歩いた「遊牧」でしたね。

ところが生活スタイルが変わって、定住するようになりました。

遊牧しませんから、すぐに家畜に食べさせる草はなくなってしまいます。

そして草がなくなり、木の芽も食べつくして砂漠化が進んでいくのです。

この地の人たちはとても貧乏です。「年収」が2万円くらい。

旭川と同じ緯度ですが、内陸ですので夏は灼熱の暑さ、冬はマイナス30度になり、

夏は朝と夕方しか畑仕事はできません。冬はもちろんなにもできないのです。

マイナス30度といえば、一瞬で凍ったバナナで釘が打てるくらいだといわれています。

広大な畑を手作業で毎日働き、これを売っても30本で1元(約15円)です。

日本で1本500円で屋台で売っているトウモロコシが

農民の手元には1本0.01円ほどしか入らないということです。

高校生のお年玉1万円を持ってこの村で「トウモロコシ下さーい」といえば、

100万本のトウモロコシが届くということですよ。

政府の貧困対策として農民にヤギが供給されたりしたそうですが、

それが逆に、過放牧を増進させてしまっているというのもあるそうです。

とつぜん強風が吹き始め、まず撮影は難しいよ、といわれていた「黄砂が飛んでいる決定的瞬間」を撮れました。

とんがった砂漠の山の先から、砂が舞い上がっています。

80%の重い砂はそのまま下に落ち、残りの20%の砂が成層圏まで舞い上がって偏西風にのって日本まで届くのです。

実際に触ってみるとものすごく細かい砂で、

デジタルカメラを落としてしまうと、機械の奥まで入り込んで一瞬でダメになってしまいます。

こうやって、ツアー1日目は砂漠を実際に見て、その現状と原因をしっかりと勉強してきました。

■緑化ツアー2日目

2日目は実際に緑化作業を行いました。

まず自然の力を信じ、それを助ける作業です。

この写真は相方格(そうほうかく)といって、ワラを埋め込んで砂が飛んでいくのを防止し

また、飛んできた種が芽を出すのを助けます。

ワラの余分な部分を風に飛ばし、必要な芯の部分だけを取り出します。

ワラを並べていきます。あんまり分厚く並べると次の作業が大変ですので、きれいに広げます。

スコップでワラの真ん中を砂にめり込ませて草が生えているように立たせます。出演は私まーちゃんでした。


これで完成! ワラは3年持ちます。その間に種が飛んできて草が生え始めます。

感動! 種が飛んできて小さな木の赤ちゃんが芽を出しました。大きく育ってくれることを祈ります。

■緑化ツアー3・4日目

3日目と4日目は植林です。松とニレを植えましたが、これはニレの植林方法の説明を受けている写真です。

牛の力で溝を作り、そこへ植えていきます。砂漠はすぐそこまで来ています。急がないと。

スコップで穴を掘り、根に巻いているビニールを破ってそこへ苗を置いて軽く土をかぶせます。

地下水をポンプで汲み上げます。

バケツリレーで苗木のところまで一気に運びます。

バケツリレーで運んだ水を、一つ一つの穴に流し込みます。

穴を少し深めにしておかないと他に流れていってしみこんでいきませんので慎重に。

水がしみこんでから、土をかぶせます。大きくなれよ、と願いながら…。

成長しはじめた、ニレの木。もっと大きくなって森になっていきます。

これは植えて2年目の松です。松は成長するのに時間はかかりますが、とても生命力のある木なんです。

この地では、緑化ネットワークの活動に賛同した日本企業が続々と参加しています。

他にも、大手写真フィルム製造企業や、アウトドア用品販売会社、共済販売会社など素晴らしいことです。


植林地そばの休憩小屋です。夏は気温が40度近くなりますので、真昼はここで休憩しないと大変です。

まるで3匹のこぶたのレンガの家のようでした。屋根の上に干してあるのはチキンの燻製。

現地の人は、昼から白酒(パイチュウ)を楽しみますから、お酒のあてなんでしょう。

でも、ニワトリそのままの形をしてましたから、ゾゾっとしたのは事実です(笑)。

中国国内にわずかにある原生林の一つが、この植林地近くに残っています。

もともと皇帝の狩をする地だったことと、地震の断層でこの部分だけが低くなっていて

木を成長させるための水が豊富にあったからでしょうか。


原生林というくらいですから、屋久島のように巨大な木が生い茂っているのかと思えば、

日本のどこにでもある森でした。

樹齢800年くらいの木らしいですが、成長がおそく樹齢30年くらいの日本の杉と変わらないくらいの太さです。

木を生長させる条件って、案外厳しいんだということが分かりました。

中国国内では本当にめずらしい“森”を見るために、たくさんの観光客がきていました。

経済成長も大切ですが、木を伐採しすぎるとこうなってしまうということが分かりました。


さてここで問題です。

町で見つけたお店の看板です。なんの店でしょうか?

中国は字をよんでそのまま分かりますよね。

クリーニング屋さんです。「中心」とはセンターの意味です。「クリーニングセンター」ですね。

それでは、「超市]って何でしょう?

そのまま読んでください。「超」(スーパー)「市」(マーケット)です。



にぎやかな町と違って、ホルチン砂漠近くの村はとても貧乏です。

植林に向かう途中の道路料金所に止まったときに、右腕のない子がいました。

彼は運転席に駆け寄ってきました。

すると運転手は当たり前のように、カラのペットボトルを彼に渡しました。

車が出発すると彼はニコっと笑って、ペットボトルを振りました。

彼の行動で車にいた日本人全員が察しました。

彼は小学校3年生くらいだと思います。通る車に声をかけてペットボトルを集め、

どこかに売って家族を助けているのでしょう。

そんな姿を見た私たちのメンバー何人かは、自分が飲んだペットボトルを大事においておくようになりました。

そうです。彼に渡すためです。

次に通ったときも彼はいました。ペットボトルを渡すと彼はキラキラと輝く目でうれしそうにこちらを見ていました。

片腕がなく、親の手伝いもできなくても、こうやってペットボトルを集めることくらいはできる。

彼はそう思ったのでしょう。

お金を渡すのではなく、彼の仕事を援助する。彼がこれから生きていくには自分で生きる方法を

やり続けないといけないのです。これが大切なことだと私たちは思いました。

今回のツアーも前回のタイと同様、とても有意義のあるものでした。

当たり前のことが当たり前でない世界がいかに多いのか。

また、人間の乱開発や過放牧で地球環境がどんどんと破壊されている現実をまざまざと感じ、また

自分のできることからやっていかないと大変なことになると思いました。

長い文章を最後までお読みくださいまして、ありがとうございました。

今回参加したツアー 緑化ネットワーク
2006.8


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心の窓 49.ボランティアツアー

ボランティアツアー

2005年12月に私と妻で、タイ王国の山岳民族の訪問ツアーに行きました。

普段、観光ルートになっていない山奥のさらに山奥、秘境といってもいい場所です。

ここでたくさんの気付きを得ることができましたのでご紹介したいと思います。

■貧困な中での生活

これは小屋ではなく、家です。

板を貼り付けただけで隙間だらけ。片方にはまったく壁がありません。

お父さんは亡くなって、お母さんと小学生の息子、4歳くらいの女の子が生活していました。

食べるものもなく、女の子はガリガリに痩せて、履いているスリッパも擦り切れて親指の部分には穴が開いていました。


家の前にはこのような池(というより沼)があり、ここで洗濯をし、体を洗い、魚やえびをとって食料にします。

日本では考えられない状況に、参加者全員がボロボロと涙をこぼしていました。

山岳地帯でも、いちおう水道が通っているのですが、蛇口をひねると茶色い水が出ます。

しばらく待っていると透明な水が出るのかと待っていると、もっと茶色くなって来ました。

つまり水道の水は飲めないのです。

日本では水道水は飲めますよね。

当たり前と思っていることが、世界では当たり前ではないということを見たとき、

私たちは「当たり前のことに、感謝をしているだろうか」

と考えるようになりました。

■山奥の学校

戦後の日本のような雰囲気ですね。

子供たちの目はキラキラと輝き、イジメなんていう言葉自体が無く、元気に遊んでいました。

この学校は、日本のある企業が世界への社会貢献として寄贈したものです。

お金の寄付ではなく学校を寄付するっていいことですよね。

学校に通えない子供は、読み書きができない、計算ができない、

つまり大人になったときに、町に出てもまともな就職ができないということです。

結局、貧困な生活を続けるしかありません。

子供たちに学校教育をつけさせるということは、貧困の連鎖から脱出できる可能性を与えることになります。

先をみた社会貢献はとても大切なことです。

写真のように、日本の国旗とタイの国旗が並んで出ているのを見たとき、こんな山奥でも国際親善が自然に行われていて、とても感動しました。

■ランチサービス

私たちは、子供たちにランチサービスを行いました。

子供たちは、いつもはまともな食事はありません。

食べるものがないときには、山に木の実を取りに言ったりして食料にします。

目が見えない男の子がいました。

山に食料をとりに行って坂道を転がり落ちて、木の枝が目に刺さったそうです。

写真は野菜のスープですが、子供たちにとっては今日は豪華メニューなのです。

■ワクワク 楽しみ!

全員、器をもって並びます。

3番目の女の子が、「私の順番、まだかなぁ」と覗き込んでいますね。

■ありがとうございます


タイは仏教の国です。

挨拶もなんでも、手を合わせて感謝の心を表します。

とても美しい光景です。

■いただきます

一つのお皿を2~3人で分けあって食べます。

全員で「いただきます!」

今、日本の若いお母さんたちの一部でこんなことを自分の子供に言っているそうですよ。

「給食費を払っているんだから、 “いただきます” なんて言わなくていい」

私はこの話をきいて、情けなくなりました。

いただきます、の意味が分かっていませんね。

お料理にむかって

「私を生かすために、命を投げ出してくれてありがとう!

あなたの命を“いただきます”」

という気持ちが、いただきますの意味です。

感謝の心はどこに行ったのでしょう・・・。

子供たちは、久しぶりのご馳走を食べ始めました。

ところが、残す子供がたくさんいたのです。

「なぜ? たくさんあるからいっぱい食べなさいね」といっても食べません。

ああ、きっと普段空腹だから、胃が小さくなって食べきれないんだ、と思って、現地の方に聞くと、違うんです。

なんと、自分よりもお父さんお母さんはもっとお腹をすかせているから、

もって帰って食べさせる、というのです。

自分よりももっとお腹をすかせた、弟、妹に持って帰るのです。

ある子は、もち米のはいったちいさな弁当籠のフタを

開けたり閉めたりしていました。

本当は食べたいのです。食べようとしてフタをあけるんだけど、やっぱりもって帰りたい、でも食べたい。。。

そんな葛藤の中、やっと一口だけご飯をつまんで野菜スープにつけて食べ、やっと決心したかのように、フタをしめて片付けて、もう運動場を走り回っていました。

本当は食べたいだけど、もっと苦しんでいる家族のことを思う。

そんな、魂が自然に磨かれた心をもった現地の子供たちの姿を見たとき見たとき、私は、どんな観光ツアーよりも100倍以上の感動を得ることができました。

日本人は裕福です。でも本当に幸せかな? と思うときがあります。

経済的に裕福でも、心に悩みをいっぱい抱えていては本当の幸せとはいえません。

タイから帰って、私たち夫婦は今、子供が嫌がっている習い事をやめさせました。

ピアノ屋の娘だからピアノはやるべきだ、というのは、親の勝手なエゴで、本人はもっと違うことがしたいのです。

イヤなものはいやなのです。

それよりも、もっとたくさんの人に、ありがとう、といわれる生き方を教えたほうが、ずっといいのはないか、

貧乏の中でも、あのキラキラと輝く目を持つ、タイの子供たちのように、これから育っていって欲しいと思いました。

タイから帰ってきてから、私の念願だった自作の曲のCDを発表しました。

その中の3曲目「伝えたいこと」の歌詞には、

私が、タイに行って感じたことを詩にしました。

♪世界中の弱い人に目を向けて、

         できることからはじめよう・・・

2006.4


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心の窓 48.鏡の法則

鏡の法則

     ~人生のどんな問題も解決する知恵~

心を真っ白にしてまず、下記のアドレスにアクセスして

じっくりとお読みくださいね。

  http://coaching-m.co.jp/reportaaa.pdf

     (2006.2)

ここで、鏡の法則を読まれた方の感想文をご紹介しましょう。

鏡の法則。石山さんがたくさんの方に配信され、またその方から私のところに配信され。。。

多くの方から転送いただきました。泣けますよ~との言葉といっしょに。

ほんとに泣きました。何年かぶりにこんなに泣きました。

ちょうどバレンタインということもあって、毎年お菓子を父親に贈っているので、

今年はせっかくこのメールをもらったので、と思い切って手紙付にしました。

「お父さんに感謝していること、お父さんに謝りたいこと」と書いているうちに、

泣けてきて泣けてきて・・・。

顔が次の日もひびくくらいぱんぱんになってしまいました^^;

届いたら父親から早速お礼のメールがきました。

手紙と中身をじっくりみさせていただいたと。

たぶんあの父親のことなので、じーんときていたはずと思います。

小さい頃、お父さんにしてもらったこと、いたずらして怒られたこと、頭をなでられたこと

一つ一つ思い出すたびに、涙があふれ出てきて、

「お父さんは本当に私を愛してくれていたんだ」と思われて

もう感謝の言葉しかありませんでした。

石山さん、「鏡の法則」をメールくださって、ありがとうございます。


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心の窓 47.弔辞

弔 辞

縁とは不思議なものです。

ぴあの屋ドットコムの掲示板で出会った東京の方とお会いすることを機会がありました。

彼は、わざわざ私に会うために京都までお越しくださったのです。

その方は、音楽・天文がお好きで私と考え方がとても良く似ていて、

その方が掲示板に投稿した特攻隊に関する書き込みを「心の窓」に掲載させていただいたり、

私がピアノとともに行っている共済事業の仕事もされることになったり、

交流がますます深まってまいりました。

そんなある日、その方のお父さんが実家の九州を直撃した台風が原因で、急死されました。

お父さんは大工さん。

いつも台風の過ぎた後は、修理の依頼で電話が鳴り止みません。

困ったときには助けるのがあたりまえだ、とすべて無料で

いつも修理に駆け回っておられたそうです。

そして、今回の超大型台風の修理の途中、屋根の上で突然

倒れられました。

台風が来たときは、気圧が極端に下がり突然死が多発するそうです。

長男である彼は、そのお葬式で決まりきった弔辞ではなく、

自分のことばで語ろうと思いました。

そして、その内容を私にも見せてくれました。

私は感動で涙があふれました。

是非皆さんにも読んでいただきたいと思い、ここに許可をいただいて

転載させていただきます。

お別れの言葉

お父さん、Tです。帰ってきましたよ。僕の声が聞こえますか? 

まさかこんな形であなたと再会することになろうとは、

ほんの一昨日の朝まで夢にも思っていませんでした。

弟から連絡を受け、落ち着かない気持ちで身の回りの整理をし、

急いで羽田空港へと向かいました。

電車の乗り継ぎが悪く直行便に乗りそこなったため、

少しでも早くあなたのいる場所へ近づきたいと思い、

福岡便に乗って帰ってきました。

機中、窓から見えるのは一面の雲海でした。

その中を西の方に沈もうとしている太陽が顔を覗かせ、

空を茜色に染めていました。

そのときふとお父さん、あなたが今いる場所はこんなところなのかな、

と思ったら頬を涙が伝いました。

聞けば台風の翌日、

朝から鳴りっぱなしになるお客さんからの電話に応えて、

何件ものお宅を回っている最中でのことだったとか。

いつものように屋根に上がったまま気分が悪くなって倒れたきり、

向こうへ行ってしまったんだそうですね。

中学を卒業して以来48年、大工一筋に愚直に生きてきた人生。

人生最期の場所が屋根の上だったとはいかにもお父さん、

あなたらしいと思うし、

「生涯現役」という言い方をするなら正に文字通り

「生涯現役」を貫き通した人生だったんだろうけど、

たった63歳で向こうへ行くというのはちょっと早すぎるんじゃありませんか?

大学進学のために東京へ出て行ったっきりなかなか帰って来ない息子のことを、

あなたはずっと信頼し、励まし、支え続けてくれました。

東京生活に区切りをつけ、来年にも地元に帰ってくることを決め、

これからいよいよ親孝行ができる、

今までの親不孝分の何倍も親孝行をしてあなたに恩返しをしようと

僕自身、楽しみにしていた矢先の出来事でした。

今は男でも人生80年時代。

人並み外れて元気にバリバリと仕事をこなしてきたあなたのことですから、

いくら少なくともあと10年やそこらは元気でいてくれるものと思っていました。

その間に、今まで働き詰めできたあなたに僕は、

ありったけの親孝行をするつもりでした。

それがこんな形であっけなくお別れをしなければならなくなったとは。

今でもなにか信じられないし、無念です。

「親孝行、したいときには親はなし」とはよく聞く言葉ですが、

まさか自分がそうなってしまおうとは。残念で残念で仕方がありません。

うちに帰ってきてあなたと対面しました。

いつも通りの顔をして横になっていました。

血色もよく、まるでちょっと昼寝でもしてるんじゃないかと思うような

顔をしていましたよ。

今にも起きだして「さて、行っちくるか」とでも言いそうな顔をしていました。

何もいらない。何も欲しくない。

ただもう一度起き上がって、いつもの少し甲高い声で「T」と

僕の名前を呼んでくれませんか?

納棺のとき、僕はあなたの右手を拭きました。

ゴツゴツしたグローブのように大きな手が僕は大好きでした。

仕事中に倒れたため、手は汚れたままでした。

爪の間には泥がはさまったままでした。

ゆっくりと拭いている間に左手はずいぶんほぐれてきたようですが、

僕が拭いていた右手はまるで何かを握っているかのように、

なかなか柔らかくはなりませんでした。

きっとまだまだ仕事がしたかったんでしょうね。

この手で鋸や鑿、金鎚や鉋をいつも握っていたんですよね。

生まれたばかりの僕を抱き上げてくれたのも、

お祭りで肩車してくれたのもこの手だったんですよね。

もしかするとお父さん、

この状況に一番驚いているのはあなた自身かもしれませんね。

人の死には二種類あると聞きます。一つは「生物としての死」。

もう一つは「存在としての死」。

ヒトという生物としてのあなたは確かに死んでしまいましたが、

あなたを覚えてくれている人が

この世にたった一人でも残っている限り、

あなたは生き続けています。

僕の、お母さんの、弟の、Aちゃんの、TUくんの、親戚の人たちの。

そして、あなたと縁があった多くの人の心の中に、

あなたは生き続けているのです。

僕は幸せです。

地元を中心にして、僕はあなたと縁のあった多くの方々から、

あなたの想い出話を聞くことができます。

街を歩けば、あなたが遺したたくさんの仕事と対面することができます。

大工の仕事というのは人々のもっとも基本的な

生活基盤を支える家を造る仕事であると同時に、

街の風景の一部を創ってゆく仕事でもあります。

街の日常に溶け込む作品を数多く遺してくれたおかげで、

僕は寂しい思いをせずにあなたを思い出すことができます。

お父さん、ありがとう、ありがとう、ありがとう。

僕の父親になってくれてありがとう。

まだしばらくは時間があるだろうけど、いずれは僕もそっちに行きます。

そのときはこっちで話し残した分、

お茶でも飲みながらまたゆっくり話そうね。

そしてもしまたこの世に生まれてくる機会が与えられたときには、

もう一度、僕の父親になってください。

お父さん、もうKちゃんやKIおいちゃんに会いましたか? 

あなたがいる場所はどんなところですか? 

あなたという太く大きい大黒柱が抜けてしまって、

すっかり頼りない家になってしまった僕たちのことを、

どうか遠い僕がまだ知らない場所から見守っていてください。

そして、僕たち家族の進むべき道を、遠くまで明るく照らしてください。

いつまでもいつまでも、僕たちを導いてください。

お父さん、僕はあなたの子どもで良かった。

ありがとう、ありがとう、ありがとう。

感謝の言葉しかありません。

どうぞ安らかに。さようなら。。。

2005年9月 O・T

彼のお父さんの葬儀には、家族がびっくりするほどの、

ものすごい行列ができたそうです。

新聞に載ったわけでもなく、心から最後のお別れが言いたかった方ばかりだそうです。

普通の大工さんとして地元の人たちのために働いてきただけです。

そんなお父さんの葬儀に長蛇の列。。。

人は最後の瞬間に、生きてきた証がわかるのかもしれません。

また、次のような話も彼から聞きました。

「お父さん、○○さんのところの仕事、出来上がってからもう何ヶ月にもなるんやけん

請求書、早く書いてよ」とお母さんが言っても、

「まだいいんじゃ」と言って書こうとしないんです。

なんか請求書を持って行くのが悪いとでも思ってたんですかね。

出入りの業者さんへの支払いをしないといけないので、

棟梁が集金してくれないことには困るんです(笑)。

あんまり放っておくものだから、逆にお客さんの方から

「早く請求書を持ってきて」と催促の電話がかかってくるのもしばしばでした。。。

それから、親父はいつもこんなことを言っていました。

「ほとんどの人にとって家を建てるのは人生でたった一度のこと。

それも、一生懸命に働いてもらってくる給料の中からご飯を食べて、

残ったお金で家を建てるんだ。

何十年と会社に勤めて退職するときの退職金をまるごとつぎ込む人もいる。

それはみんな、お父さんのことを信用してそんな大事なお金を任せてくれるんだ。

だから、絶対にいい加減な仕事は出来ないんだ」。

石山さんが「心の窓」の中で、自分がやっていることはいつも神様が見ている、と思っている

と書かれていますが、親父もまさにそういう気持ちでいつも仕事をやっていたんでしょうね。。。

お父様が亡くなってから、彼に再び会いました。

上記のような話を聞いて、また涙がこぼれました。

請求書をなかなか書かなくても

自分のした仕事に喜んでくれたら、ちゃんと払ってくれる、と

お父様は信じておられたからでしょうし、

台風の後に、町中を走り回って屋根の修理をしていた姿からも分かるように、

ただ、お父さんの心のなかに世のため、人のため、

という気持ちが普通の人よりも強かったことがわかります。

多くの方に慕われ、喜ばれる生き方をした彼のお父さんは、お国替えをしても、

またそこで「ありがとう」といわれる生き方をされることでしょね。

私もきっとこういう生き方をするために生まれてきているはずだ、と思いました。

だから。。。実践ですね。


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心の窓 46.スペシャルオリンピックス

スペシャルオリンピックス

世界にはオリンピックが3つあります。

一つは一般的なオリンピック。そして身体障害者のためのパラリンピック。

そして日本ではほとんど知られていなかった知的障害の方のスペシャルオリンピックス。

2005年2月に、アジアで初めて長野県でこのスペシャルオリンピックス世界大会が開かれました。

私も、京都でのトーチランのボランティアに参加させていただきましたが、

このなかでたくさんの気付きをいただきました。

このスペシャルオリンピックスの知名度がぜんぜんない時代から、

全身全霊を掛けて、この活動にかかわってこられた方がおられます。

名前は申し上げませんが元総理大臣の奥様です。

その方の講演を、長野世界大会の1年ほど前に聞き、私は大変感動いたしました。

その講演内容の一部をここにご紹介しましょう。

私がこの「スペシャルオリンピックス」の活動を始めたきっかけは、

今から13年前、地元熊本の新聞を読んでいましたら、

大きな記事で「ともこちゃん、スペシャルオリンピックス世界大会で銀メダル獲得!」

と記事が出ていました。私はパラリンピック以外に、

もう一つオリンピックがあることをそのとき初めて知りました。

ともこちゃんはわずか10歳、ダウン症で難聴。

ほとんど耳は聞こえない状態でありながら、

床運動の体操で銀メダルと獲得したことが分かりました。

私はびっくりしました。

そして、その体操指導したボランティアの先生の談話が載っていました。

「スペシャルオリンピックスという競技会は、ベストを尽くして途中であきらめず、

最後まで頑張り抜いた選手はみんな勝利者で、表彰台に上がれるんです」。

それに私は心を惹かれました。

そしてその方をお招きして講演会を行いましたが、

そのときにある牧師さんのお話が出てきました。

「どんなに医学が進歩しても、

人間が生まれ続ける限り、

人口の3%前後は障害のある子供が生まれる。

それはなぜかと言うと、

その子の周りの人たちに、優しさ、思いやり、を教えるための

神様からのプレゼントだから・・・」

という話を聞き、私は目からウロコの感動を覚えました。

それまで、障害者の方を見たら、気の毒に・・・、

不運にしてどうして障害をもって生まれてしまったのかな・・・、

などど、神様は不平等だ、片や元気ですくすくと五体満足に育つ子供もいれば、

ほんとに自力ではなんにもできない子供も必ず生まれてくる、

なんて神様はむごいことをなさるんだろう、と恨めしく思ったりしていました。

そういう弱者といわれる人たちに、私は同情心しかありませんでした。

ところが、その牧師さんのお話はまったく別の視点から

私に気付かせてくださいました。

そして、私が気付いたことは、

あぁ知らず知らずに私は、大変傲慢な人間になって、

そして傲慢な人間が作った物差しで、勝手に人様を判断していたということです。

実は、ともこちゃんは予選で一番成績が悪かったんです。

なぜならば、耳が聞こえないために、音楽が鳴っても踊りだせずに、

高い天井を見つめてボーっと立っていたんです。

その彼女を見て、観衆がみんな立ち上がって、声援を送り、

ようやくともこちゃんは気付いて踊り始めたんです。

それで、予選で落ちたと思っていたら、決勝に出られることが分かりました。

コーチが、どうして一番だめだったともこが出られるんだろう、と訊いてみたら、

「スペシャルオリンピックスでは、予選で落ちる選手は一人もいないんですよ。

予選はクラス分けといって、同じレベルの子で競技をする、そのための予選なんですよ」

といわれ、よーし、と頑張って銀メダルを取ることができたのです。

つまり、スペシャルオリンピックスが一番大切にするのは、

ナンバー1(世界記録を出す)というものではなく、

一人一人が自分の能力、可能性に向かって、勇気をもって挑戦し、

自分のベストを尽くした人、それこそ勝利者であり、価値観だということを知って、

私はまた感動してしまったのです。

最近はやっている歌「世界で一つだけの花」。素晴らしい歌詞ですよね。

ナンバー1になれなくてもいい、一人一人が、一生懸命自分らしく生き、

世界でたった一つの花を咲かせる、そのことに一生懸命なればいい、という歌詞です。

とっても素敵ですね。

私たちの活動は、そのように、選び抜かれたトップのアスリートたちを育てるのではなく、

全ての知的障害のある人たちにチャンスを与え、

その子が精一杯頑張り、それをみんなが認める、

そしてその子がどんどん成長していくのをみんなが喜ぶ、

という活動を私たちはしております。

私たちのスペシャルオリンピックスだけ最後に複数の「S」が付いています。

オリンピックやパラリンピックは「ク」で終わっています。

これは、世界大会をする団体だけじゃないからです。

年間通して継続的に、日常生活の中で毎週、地域のボランティアの方々を通じて、

今日の土曜日も今この時間に行われて、いつもいつも行われている、

だから「S」が付くんです。

この活動でどんどん成長していくんですが、実は、周りの人も変わってくるんです。

私もその一人です。

最初は知的障害者のことを、かわいそうと思い、

一方的に「なにかしてやろう」という、たいへん傲慢な気持ちを持っていました。

ところが彼らと楽しく一緒に触れ合っていくうちに、

「知的障害者はこっちのほうだ」ということが分かってきました。

彼らはほんとうに純粋な魂を持ち続けて、だれよりもやさしい。

そしていたわりの心が人一倍強い。

そうしますと、知的障害者という言葉を作ったこと自体が

まちがいであることに気付きました。

それは私たちの物差しで勝手に、知的障害者という言葉を作ったんです。

でも、別の物差し、例えば、やさしさ、思いやり、どっちが人間らしいか、

という物差しではかった場合、彼らのほうが、ずっと上等な人間なんです。

あるがままを受け入れる、やさしさ、誠実さ、私たちはとてもかなわない。

彼らと触れ合うことで、人間としてとっても大事なことを学んで、

私たちのほうが成長する、

魂を彼らに磨いてもらっていると思っています。

こんな素晴らしい活動だから日本中に広めて、

かかわった人がみんな、やさしく和やかになって、だれも認め合って支えあう、

そんな社会になったらどんな素敵だろう、そう思ってこの活動を続けています…。


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カテゴリー: 心の窓 | コメントする