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心の窓 「お母さんの先生になる」

ゆうちゃんは学年で一番の成績である、新しく6年の担任になった女教師は、このあまり目立たないゆうちゃんが学年一番なのが不思議だった。

ゆうちゃんの親はどんなしつけをしているのだろうか、どんな塾に行かせているのだろうか、生徒の情報を見る限り母子家庭の一人っ子だからだ。

やがて家庭訪問の時期が来た。

家はおせいじにも綺麗とは言えない木造のアパートだった、母親はその日パートの仕事を休み先生の訪問を待っていた。

女教師は母親に聞いた、お子さんはどんな塾に行かせているのですか?

母親は、とんでもない私たちは母子家庭で私は3つの仕事を掛け持ちしていますが暮らして行くのが精一杯なのです、塾などとても。

それではお母さんが勉強を見てあげているのですか?

先生とんでもありません、私は子どもの頃から貧乏な家庭に育ち中学しか出ていません。

あの子が小さい頃に不慮の事故で夫とは死別しその後はあの子と二人っきりで誰にも迷惑をかけずに生きて来ました。

女教師は不思議だった、ゆうちゃんは勉強のすべてが学年でトップなのだ。

六畳一間の和室を見渡してもテレビも学習机も何がある訳でもなかった。

お母さん、ゆうちゃんが学校から帰ってからの様子を教えて貰えませんか?

はい、私のパートが終わるまでにご飯を炊いてくれています私はおかずを買って帰ります。

ゆうこはその日に学校で習った事を全部話してくれます。

科目毎にノートを見ながら私にも分かる様に分かるまで教えてくれます。

私は子どもの頃きちんと学校にも行けず、今沢山のことをゆうこが教えてくれるこの晩ご飯の時間が一番好きなのです、多分あの子も同じだと思います。

先生、これ以外に特別に変わった話しはありません。

女教師は思った、教育とは上から下に教えることじゃないんだ、教育とは興味を抱かして誰かの役に立つことを気づかすことなんだと。

幸せとはなんでしょうか?

気持ちが貧乏であるならば、どんなにお金や物があろうとも貧乏であり、気持ちに感謝があり今この時を楽しめれば本当に幸せだと思います。

ゆうちゃんのその後は人に寄り添う優しいお医者様になりました。


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心の窓 「あの日の若いパパ」

「あの日の若いパパ」

電車や飛行機等の公共機関で、泣いている子供と困り顔の親を見かける度に思い出す場面がある。

今から18年ほど前、私にはまだ子供はおらず、全国に出張で身軽に飛び回っていた。

その日も名古屋から大阪に向かう新幹線に乗り、仕事の緊張感から解き放たれる束の間のひととき、車内販売のアイスクリームを楽しみにしていた。ところが、だ。

乗った瞬間から遠くで子供の泣く声がする。「しまった」と思った。

しかも泣き声はどんどん大きくなり、やがて車両中に響き渡った。

新聞に目を向けながらも明らかに不快な顔をする中年サラリーマン、舌打ちしながら寝た振りする大学生風の男性、私もさすがに態度には出さないものの、今の言葉で表現するなら「激しく同意」な心境だった。

見ると1歳前くらいの女の子の赤ちゃんと、若いパパの二人連れだ。

近くには育児経験のありそうな救世主になってくれる女性の姿は見当たらず、父親は泣き止まない娘を抱えデッキと車両を行き来するだけで、どう対応して良いか分からない様子だった。

迷惑にならないよう自分の胸に子供の顔をあて、なんとか寝かせ付けようとしているのか、少しでも泣き声のボリュームを小さくしようとしているのか、次第に赤ちゃんの声はかすれ、しゃっくりと嗚咽で心配になるほどだった。

ようやく大阪に着くアナウンスが聞こえた時には、今までで一番長い名古屋⇒大阪間だったと感じた。

きっと周囲も「やれやれ」と思ったに違いない。今ごろ泣き疲れて眠った子供と大きなバッグを抱えた若い父親が車両を出てゆく背中を、私は少し恨めしく見ていた。

その瞬間、まるで父親は車掌のようにクルっと振り返った。

そして、よく通る大きな声で

「皆様!お疲れのところ、またお寛ぎのところ、お騒がせしてしまい、大変申し訳ありませんでした!」

と、寝ている娘を抱えたまま頭を深々と下げたのだった。

私は予想外な光景に鳥肌が立った。

すると、一番強面なスーツ姿の男性が「みんな一緒だよ。気にするな」と慰め、次に他の男性が「このあとも頑張れよ」と励ました。そして車両内が拍手で包まれたのだった。

その同志感にすっかり乗り遅れた私は戸惑ったが、ホームを歩く親子の後ろ姿が見えなくなるまで心の中で祈り続けた。

「この先の道中は、無事に笑顔で目的地に辿り着けますように…」と。

もしかしたら、奥さんが下の子の出産で里帰りをしているのかもしれない、
祖父母に孫の顔を見せに行く途中だったかもしれない、
そして…、訳あって父子での新しい生活がスタートしたばかりだったのかもしれない。

どれも想像で答えはないが、人はどんなに迷惑をかけ失敗しても、その後の対処や誠意の見せ方で全く出来事の意味が変わるのを目の当たりにした。

「小さい子は泣いて当たり前。何が悪いの?」と開き直られれば反感もかうが、何とか最善の努力をしているその姿勢に共感と理解を得られれば、怒りさえ許しや励ましに変わる。

それは、もう顔も覚えていない若いパパから学んだ強烈な教訓だった。

あれから母親になった今の私なら、容易に想像がつく。

おむつが濡れてない?喉は渇いてない?お腹が空いてない?眠いんじゃない?熱っぽくない?等々…せめて子供の気を逸らすため微笑みかけるか、父親を経験談で安心させてあげるか、何らかの声掛けができた気がする。

あの時のお嬢さんも20歳近くなり「あの時は大変だったなぁ」と父親からしみじみ言われても「そんなの覚えてるわけないじゃん!」と笑い飛ばしているかもしれない。

そして父親は、昔の自分のような新米パパやママを見たら「大丈夫。みんなお互い様だよ」ときっと優しく微笑みかけている事だろう。

grape Award 2019 佳作
タイトル:『あの日の若いパパ』
作者:鈴木 ユミコ

(出典:https://news.headlines.auone.jp/stories/topics/story/13469616?genreid=1&subgenreid=3&articleid=13469616&cpid=10130086&news=topic&fbclid=IwAR0PIlrYLXfyWklcfdVCBZ6YU6v69roSMNNzVCGc6-XaOzmtg5MnqPynMnc)


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心の窓 「日本一心のこもった恋文」

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❤天国のあなたへ❤

娘を背に日の丸の小旗をふって
あなたを見送ってから
もう半世紀がすぎてしまいました

たくましいあなたの腕に抱かれたのは
ほんのつかの間でした

三十二歳で英霊となって
天国に行ってしまったあなたは
今どうしていますか

私も宇宙船に乗って
あなたのおそばにいきたい
あなたは三十二歳の青年
私は傘寿を迎える年です

おそばに行った時
おまえはどこのひとだ
なんて言わないでね

よく来たと言って
あの頃のように
寄り添って座らせて下さいね

お逢いしたら
娘夫婦のこと
孫のこと
また、過ぎし日のあれこれを話し
思いっきり、甘えてみたい

あなたは優しく
そうかそうかとうなづきながら
慰め、
よくがんばったねと
ほめて下さいね

そして、そちらの「きみまち阪」に
つれて行ってもらいたい
 春 あでやかな桜花
 夏 なまめかしい新緑
 秋 ようえんなもみじ
 冬 清らかな雪模様など
四季のうつろいのなかを
二人手をつないで歩いてみたい

私はお別れしてからずっと
あなたを思いつづけ
愛情を支えにして生きて参りました
もう一度あなたの腕に抱かれ
ねむりたいものです

力いっぱい抱きしめて
絶対に離さないでくださいね

   秋田県 80歳 T・Yさん
  『日本一心のこもった恋文』より


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心の窓 「あるトラック運転手の男気」

あるトラック運転手の男気

「航空自衛隊のパイロットになりたい」それが中学三年生の瑠美子さんの夢だった。
その夢を叶えるため輪島市にある日本航空高校石川の推薦入試を受験することになった。

瑠美子さんがパイロットになりたいと思ったきっかけは、中学一年生のときTVで航空自衛隊の戦闘機「ブルーインパルス」の勇姿を見ての憧れだった。この気持ちをまず母親に話したが、案の定両親とも反対した。住まいは埼玉県川越市。一人で石川県に下宿しなければならない。私立校で学費が高いということも理由のひとつにあった。

実技を学べる魅力と強い決意を訴えての何度かの母親との話し合いの結果、ついに母親からは了承を得ることができた。そして母親は「ローンの手続き、その返済も私が何とかするから」と、父親を説得してくれた。瑠美子さんも「推薦がダメなら、県内の公立高校にする」という約束をした。

1月17日午前9時10分開始の試験に向けて、瑠美子さんは母親とともに前日の夕方、川越の自宅を出発、大宮駅で上越新幹線に乗り換え長岡駅で下車。そこから夜行列車で車中泊をしながら、計6路線の電車・バスを乗り継いでの大移動の計画であった。

ところが予期せぬ事態が起こった。長岡駅で乗り換える予定だったJRの金沢へ向かう夜行列車が、折からの豪雪で運休になってしまった。瑠美子さんは途方にくれた。翌朝の始発特急では間に合わない。これで夢は終わった。無情な雪は降り続く。母と立ちすくむ凍てつく静かなホームで、涙が止まることはなかった。

泣き続ける瑠美子さんを見て、母親が「絶対にあきらめてはいけない!」とたしなめた。初めは日本航空高校受験に反対していた母親がヒッチハイクをして輪島に向かおうと言い出した。長岡駅からタクシーで北陸自動車道長岡インター入り口まで移動し、そこで1人目の親切なトラック運転手の好意で上越市内までとりあえず移動することができた。しかし、日本航空高校石川までまだ270Kmある。

上越市では深夜営業のガソリンスタンドを探し、母娘は吹雪の国道を歩き始めた。歩道は150Cmの積雪のため、車道にできた轍の上を歩いた。途中、車が近づくと、オレンジ色の傘を広げ上下に大きく振って必死に合図を送るが、次々と通り過ぎて行ってしまう。吹雪が強まると、瑠美子さんには数メートル先の母親の姿がかすんで見える。真夜中の凍てつく中を約2時間半歩き続け、やっと一軒のガソリンスタンドに辿り着いた。

母娘はガソリンスタンドに立ち寄った車両に同乗を頼み続けた。寒風の中、数台に断られながらも根気よく金沢方面に向かう車を待つ。時折立ち寄る運転手に声をかけること1時間。時間が気になる。時計の針は午前4時半を指している。そこへまた一台大型トラックが入ってきた。母親は運転手の男性に駆け寄り、必死に乗せて欲しいと頼み込む。「金沢までならいいよ」と応じてもらえた。

「ヨコヤマ」と名乗ったその運転手は、山形県から日本海岸経由で神戸まで行く途中で、がっちりした体型で無口そうな印象の人だった。母親が「お子さんはおられるんですか?」と尋ねると、Tシャツ姿のヨコヤマさんは「自分にも同じ中3の娘がいる」と答えた。瑠美子さんは座席後ろの簡易ベッドで1時間ほど眠った。吹雪の中、トラックはひたすら走り続けた。

瑠美子さんが目を覚ますと、東の空は白み金沢市が近づいていた。すると突然ヨコヤマさんは「よし、輪島まで行っちゃる。うちの娘も受験生だから気持ちはよく分かる」と、ハンドルを右に切り、能登有料道路を北上した。

先行する車を次々と追い抜いたトラックが試験会場に着いたのは午前9時。試験開始のわずか10分前であった。事前に携帯電話から状況説明を受けていた高校側は、間に合わなかったときの対応も考えていたという。ところが、吹雪の中を疾走してきた大型トラックが正面玄関に横付けされる。それを見て「欠席か遅刻」と推察していた試験担当教員も驚いて出迎えた。

トラックを降りる瑠美子さんに、ヨコヤマさんは「頑張れよ」と声をかけた。「ありがとうございました。本当に助かりました。」とお礼を述べ、連絡先を尋ねる母娘と学校関係者に、ヨコヤマさんは「大したことはしてないから」とだけ口にし、何も告げずにアクセルを踏んで去って行ってしまった。

作文試験に臨んだ瑠美子さんは出題テーマを見て目を丸くした。テーマは「私が感動したこと」であった。初めは大反対していた母が「絶対にあきらめてはいけない」と励まし、懸命に車を探してくれたこと。見ず知らずの母娘を遠回りしてまで会場まで送ってくれたヨコヤマさんのこと。瑠美子さんは直前までの「感動」と「感謝」をありのままに綴った。

4日後の21日、瑠美子さんに合格通知が届いた。
高校側は車に書かれていた社名をもとにヨコヤマさんを捜し出し、瑠美子さんの合格を報告した。

「よかった、よかった」と、喜んでいたという。そして「当たり前のことをしただけだから」と、大げさにされることは勘弁して欲しいと付け加えたという。

出典:http://www15.plala.or.jp/mpsob/green/20100305_truck-driver.html


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心の窓 「教え子からの遺書」

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「教え子からの遺書」

徳永先生は、熊本県の歴史始まって以来、
30代の若さで小学校の校長になられたほど優秀でしたが、

「教員の仕事は、教壇に立って教えることだ」

と5年で校長を降り、自ら志願して一教員に戻った人でした。

だから、どの学校に行っても校長に嫌われるんですね。

自分より実力が上なものだから。

それで2年ごとに学校を出されてしまうんだけど
行く先々で教師たちが一番敬遠している難しいクラスを受け持って
みんなを勉強好きに変えてしまうんです。

徳永先生は、昼飯を食べない人でした。

なぜ食べないかというと、終戦直後、
昼の時間になると、弁当を持ってこられない子供たちが
さーっと教室からいなくなる。

それでひょっと校庭を見たら、
その子たちが遊んでいたんです。

その時から、自分もピタッと昼飯を食べるのを止めて、
その子たちと楽しい遊びをして過ごすようになりました。

以来、昼飯はずっと食べない人生を送るんですよ。

晩年になっても。

これは戦前の話ですが、

「明日は工作で切り出しナイフを使うから、持っておいで」

と言って、児童たちを帰したら、次の日の朝、

「先生、昨日買ったばかりのナイフが無くなりました」

という子が現れました。

先生は、どの子が盗ったか分かるんですね。

この生徒は、兄さんがすばらしく頭がよく、
いつも家で比較されて、偏愛の中で冷たく育っておりました。

学用品を買うのにも

「馬鹿タレ、勉強もできんものが、何を金が必要か」

と叱られるのです。

「あの子ではなかろうか」と暗然とした徳永先生は考えて、
一つの方法をとりました。

昼休みの時間、中には運動場に出ない生徒もいますが、
この日は、全員を運動場に出して遊ばせました。

それで、全員外に出して遊ばせているうちに、
盗ったと思われる子供の机を見たら、

やっぱり、持ち主の名前を削り取って、
布に包んで入っていました。

先生は、すぐに学校の裏の文房具屋に走って、同じナイフを買い、
盗られた子の机の中に入れておきました。

子供たちが教室に帰ってきた時、

「おい、もう一度ナイフをよく探してごらん」

と言うと、

「先生、ありました」

と。

そして、

「むやみに人を疑うものじゃないぞ」

と言うんです。

その子は教室の一隅から、うるんだ眼で先生を見たといいます。

それから時代が流れ、戦時中です。

特攻隊が出陣する時、みんなお父さん、お母さんに書くのに、
たった一通、徳永先生への遺書があったのです。

それは、あの日、ナイフを盗った子からのものでした。

「先生、ありがとうございました。

 あのナイフ事件以来、徳永先生のような人生を送りたいと
 思うようになりました。

 明日は、ポーランジャの空で僕は見事に戦死できると思います。

 その前にたった一言、先生にお礼を申し上げたい。

 あの時に、先生はなんにも言わないで僕を許してくださいました。

 死の寸前になってそのことを思い出し
 『先生ありがとうございました』とお礼を申し上げます。

 どうぞ先生、体を元気にして、
 僕のような子どもをよろしくお願いします」

というのが絶筆でした。

彼は昭和19年5月12日、
ニューギニアのポーランジャの空中戦で戦死しました。

若冠十九歳でした。

教え子から遺書を残された徳永先生、

愛しい教え子を死地に送り出さねばならなかったこの時代、
徳永先生は、深い悲しみに沈みこみました。

徳永先生はあの時、自分が彼と同じ境遇におかれたら、
これ以上の荒れ方をするだろうと考えたそうです。

「どうしてあの子を怒ることができただろうか・・・」

と。

今、その教え子の墓前には、
先生が植えた八重クチナシが大きく育っています。

出典:致知2008年3月<楽天知命>超凡破格の教育者徳永康起先生


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